ワンダフルライフ 佐藤信夫②

不器用だからこそ 基礎をやり続ける

佐藤の7歳年上で、日本のトップ選手だった、杉田秀男。彼は、中学生時代の佐藤について、こう語る。

杉田「彼の滑りを見た時に、この年齢でこれだけ基本がしっかりした滑りをする子ってのはちょっと脅威だったですよね。負けるとしたら、この子だなと感じた。」

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必死に基礎に取り組んだ佐藤は、わずか15歳で全日本初優勝を飾る。
だが…

1950年代。日本のスケート界は、黎明期。フィギュア先進国である欧米とは、大きな差があった。
ビデオすら普及していなかったため、欧米の情報を手に入れることも難しい時代。
そこで…
佐藤たちは、海外選手の演技を撮影した連続写真をパラパラ漫画にして、必死に技術を研究した。

その努力は実を結び、国内では敵なしの存在に…
さらに、フリーの演技では、 日本人で初の二回転ルッツジャンプに成功。
名実共に、日本のトップ選手となった佐藤。
そして彼は、ついに世界と勝負するチャンスを得る。
1964年、インスブルックオリンピックで、日本人男子初の8位入賞を果たしたのだ。

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当時、日本スケート連盟の予算は少なく、海外遠征の費用など、ほとんどが個人負担だった。
両親にこれ以上、負担はかけたくない…
佐藤は大学卒業後、『国土計画』への就職が決まり、フィギュアスケートは、引退するつもりだった。

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ところが…
佐藤に対し、当時の社長、堤義明は・・
『家族に迷惑はかけさせない。会社に籍をおいてスケートを続けなさい。』

佐藤「そんなすごい人だと知らなかったから、後から知ってこれは大変なことになった」

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堤は、全国各地にリンクを作り、日本スケート界の環境作りを、影で支えた人物。
まだ、選手・佐藤信夫は、必要とされていた。
一刻もはやく、世界に追い付くために…

佐藤「自分では辞めたつもりだったんです。ちょっと考えが甘かった。周りが認めてくれなかった。」

周囲からの期待に応えるため、佐藤は覚悟を決めた。

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日本フィギュアを世界レベルに

佐藤は、『コンディション作り』の専門家に協力を依頼した。
今や、当たり前となっている試合前の体調管理。
だがこの時代、日本では陸上競技などで導入されたばかりだった。
佐藤は、何日前に、どんなトレーニングをすれば、ベストコンディションで試合に臨めるのか、試行錯誤を繰り返した。
欧米に追いつくためには、できることは全てやる…
ただ、その思いだった。

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その結果、佐藤は、圧倒的な強さで全日本選手権を連覇。
前人未到の10連覇を達成する。

そして、8位入賞したオリンピックから、1年…
佐藤は、日本人初の世界選手権4位入賞を果たす。
それは、フィギュア後進国日本が、初めて世界で認められた瞬間だった。

佐藤は、24歳で現役を引退。
その後、コーチの道へ…

日本人初の世界選手権3位になった佐野稔、松村充など、世界で通用する選手を数多く育てあげた。
1日6時間にも及ぶ練習。
家族よりも多くの時間を共に過ごし、試合では、リンク脇に立てる唯一の存在。
リンク上で、たった1人で演技する選手にとって、何にも代えがたい精神的よりどころ。
それが、フィギュアスケートコーチなのだ。

(*゚Д゚)つ③に続く~♪
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