ソチ五輪後のメッセージ タチアナ・タラソワ


Number 848号 2014年2月27日発売

タチアナ・タラソワ 佐々木正明=文
「ブラボー、マオ! ありがとう、マオ!」

 それは、まるでラフマニノフの旋律がクレッシェンドに向かう前のような、静かな、厳かさに満ちた語り口だった。

「真央、私の可愛い真央、がんばるのよ。がんばるのよ」

 ソチ五輪女子フィギュアフリー。地元テレビ局の解説者として、会場のアイスベルク・パレスにいたタチアナ・タラソワは、リンクに現れた愛弟子に祈るような口調で呼びかけた。

 前日のショートプログラムの衝撃。やはり実況席から、タラソワは浅田真央の不調をまるでロシア人選手の結果のように嘆いていた。

 アナウンサーが、タラソワが振付けした曲目にひっかけて、「あなたが全てを用意したのですね」と聞く。

 自ら選んだ、浅田の青い衣装を前に、ロシアフィギュアスケート界の重鎮はそれが誇りであるかのように言った。

「そうよ。私が用意したの。演技にもう問題ないわ」

 身体の動きをチェックしていた浅田が、スタートの位置につく。タラソワはまた静かにつぶやいた。そう、4年前のバンクーバーのリンクサイドでの振る舞いのように。

「力を奮い起こしなさい。私の可愛い真央。さあ、行くのよ。真央・・・・・・」

 ラフマニノフのピアノの重厚な音が流れた。緊張した表情の真央がスーッと後方にシューズを滑らせる。2人が再会を果たしたソチで、後世語り継がれるだろうタラソワの歴史的な実況はそうして始まった。

 浅田の代名詞、トリプルアクセル。タラソワは前日の失敗を「あわててしまった」と分析していた。ピアノ協奏曲第2番のクレッシェンドとともに、その瞬間に近づいていく。

「ウッ」

 着氷。力がこもった声がマイク越しにもれた。

 20秒後のジャンプコンビネーションも成功した。会場がどんどん盛り上がっていく。タラソワの声は一気に明るくなった。

「3回転-3回転。今シーズン、初めて決めたわ!」

 浅田は次々にジャンプをこなした。加速したスピン、妖艶なつなぎの舞い、颯爽としたスケーティング。それはまさに愛弟子のあるべき姿だった。

「なんていい子なの」
「なんて素晴らしいの」

 もう2人だけの世界だった。自分が振り付けた舞い。教えた最高難度の技。タラソワは実況席からいつの間にか立ちあがっていた。体力を消耗する最終盤の演技に、愛情を込めてエールを送った。

 そして、エンディング。泣き崩れる浅田の姿にタラソワはただ拍手していた。涙していた。実況はもう関係ない。タラソワは浅田に語りかけていた。

「ブラボー。ありがとう。真央。本当にありがとう。よくここまで仕上げたわ。あなたは素晴らしいスケーターよ。自分に打ち勝ったの」

 画面に、キス&クライへ向かう浅田の姿が映し出された。涙がこぼれても、笑顔をふりまいていた。タラソワはもうこらえきれなかった。

「ああ。なんてことなの。もう泣かないで。辛くて見てられないわ」

 近くにいたのなら、きっと抱きしめていたに違いない。そう、バンクーバーの時のように。

 すべての演技が終了して、リンクに表彰台が設置された。メダリストが再びリンクに現れたとき、本来なら3人へコメントを添えるべきだったかもしれない。しかし、タラソワの口から紡ぎ出されたのは、真央への感謝の気持ちだった。

「真央、私のプログラムを踊ってくれてありがとう。夏に私の元に来てくれたわね。私はあなたのお願いを断れなかった。だから振付けを引き受けたのよ。よくここまで頑張ったわね。本当に辛かったでしょう?」

 ラフマニノフの「鐘」をたずさえてともに戦ったバンクーバーを経て、2人は約束の地、ソチに辿り着いた。誰よりもその定めを理解していたのは、ロシアのフィギュアスケート界で半世紀以上も過ごしたタラソワだった。実況席のタラソワのほとばしる感情はもう止まらなかった。

「真央、あなたを愛している。あなたと一緒に取り組むことができた運命に私は感謝するわ」

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