ロシア人・朝鮮人に「性奴隷」にされた日本人女性の悲劇④

歴史通 2017年4月号  総力特集 こんな許せない歴史があった「シベリア・満州の悲劇」
ロシア人・朝鮮人に「性奴隷」にされた日本人女性の悲劇


ケダモノ以下の囚人ロシア兵

「敗戦と同時に北朝鮮に南下してきたロシア兵(ソ連軍)はケダモノ以下でした。当時、日本人は民間人も含め、我々兵士と共に、家を朝鮮人に奪われて、学校や工場などで避難民生活をしていたのですが、ロシア兵は"ヤポンスキー・マダム・ダワイ(日本女性はいるか?)"と、若い女性を捜し回り、見つければ、その場で押し倒し、集団強姦です。しかも物陰でなどという配慮など一切ありません。当然、目の前で娘や妻が犯されるのですから、父親や夫は止めに入ります。そうした場合、即、射殺です。我々兵士も武器を取り上げられており、如何(いかん)ともしがたく、それはもう地獄絵図でした。だから、顔に泥をなすりつけ、頭を丸刈りにする日本女性もいましたが、奴らの目から逃れるのは難しかったようです。

 この先遣隊は、殺人犯や強盗犯で編成されたいわゆる"囚人部隊"だったようで、その後、正規軍が入ってきて、状況は少し改善されました。日本軍もロシア兵も同様ですが、正規軍は厳しい軍律がありますから、民間人に不法な事をしたら軍法会議にかけられ極刑です。だから、人前で強姦するような乱暴なことはしません。とにかく囚人兵レベルの低さといったら・・・・・・。人相は凶悪そのもの、やることなすこと人間ではないのです。なにしろ日本人の前でズボンをおろして平気な顔で排泄するのですからあきれるばかりです。正規軍のロシア兵は"あいつらは、死ぬ運命にあった死刑囚もたくさんいる。ここまで生きられただけでもうけものだ"と吐き捨てるように言いました。まあそれでも、正規軍がきてからは、目にあまる強姦や殺戮(さつりく)が減り、我々日本人が少し助かったのも事実です・・・・・・」

 元憲兵伍長・開勇氏は、そこまで一気に語り、大きく息をついた。満州や朝鮮半島にいた多くの日本兵がソ連に捕らえられシベリア抑留となったが、開氏はアルチョム収容所から南の古茂山収容所に送られるため五百キロ歩かされている時に、ソ連軍警備兵の目をかいくぐって必死の脱走を試みて成功したのだが、南下する際、朝鮮人の保安隊に、日本軍の惨敗兵と見破られ、再びソ連軍に引き渡されてしまった。下着に所属部隊と名前が書かれていた(戦死した際の認識票代わりに日本兵は皆そうしていた)のが致命的だった。ちなみに当時の北朝鮮では、人民保安隊だの特別警備隊と名乗る朝鮮人の武装自警団が跋扈(ばっこ)し、街道に関所のようなものを設け、日本人避難民から通行料だといっては金目のものを強奪したり、日本兵を一人当たり約五十年でソ連軍に売り飛ばしたという。

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ソ連兵の蛮行を証言した開 勇さん

「私は三百人の日本兵とともに、再びソ連兵に連行されることになったのですが、その道中でのことです。山道を芋虫のように地べたを這いながらこちらに進んでくる奇妙な人間の姿を目にしました。近付いてみると、両手と膝に草履(ぞうり)をひざにも草履をくくりつけ、四つん這いになってそろりそろりと歩む老婆でした。"おばあさん、どうしたのですか?"と問うと、"息子夫婦は先に逃げたのですが、匿(かくま)ってもらっていた朝鮮人に家を追い出され、私一人、南鮮へ行くところです。腰が悪いので、こうして進むしかありません"と言います。さすがに我々は絶句しました。助けてやりたくても、連行される身の我々にはどうしてやることもできません。堪り兼ねた兵隊の一人が"親を捨てて逃げるだなんて"と呟くと、"息子夫婦には私が頼んで逃げてもらったのです。無事内地に帰ってくれればいいんです。恨んでなんかいません。戦争に負けたのですから"と言い残しやがて老婆は見下ろす私たちを後に、南に向かって、そろりそろりと這って行き、私たちも無言のまま北へ歩き出しました。しばらくして思わず後ろを振り返ると、黒い豆粒のようになった老婆が、峠の向こうに消えてゆくのが見えました。涙なんて出ませんが"戦争に負けるとは! 心も死ぬことなのだ!"とつくづく思い、足だけでなく心までずっしりと重くなりました」

平壌で三百体の死体処理

 開氏は、北へ向かう行軍の最中、再び脱走を試み、成功。運よく平壌まで逃れた。

「平壌には下平避難民団(関東軍野戦貨物部及び、その指揮部隊家族約八百名)と、横内清津避難民団(下平方面在住者の約二百八十名)の二つの避難民集団がありました。私は清津避難民団に紛れ込みました。

 しかし、ここでも十月下旬になると船橋里警察署から"十七歳以上の日本男子はただちに出頭せよ"と通達がありました。

 ソ連軍に引き渡され、シベリア送りになるのは当然予測されましたが、男達は皆観念して、警察署に出頭しました。そうしなければ老人や女子供に迷惑がかかるからです。私も"今度こそシベリア送りだ"と覚悟しました。ところが日が暮れ始めた頃"今日は帰っていい。後日の呼び出しまで待機せよ"といわれ、拍子ぬけしたものです。どうやら、船里警察署の署長の奥さんが日本女性で、裏からなんらかの工作をしてくれたようです。あの戦争を生き延びた者は、皆、そうした僥倖(ぎょうこう)に恵まれた者だけです。

 それはともかく、冬の訪れとともに、バタバタと避難民達が死に始めました。劣悪な環境下で栄養失調、腸チフス、アメーバー赤痢、マラリアが蔓延(まんえん)し始めたのです。私は平壌日本人会東平壌支部奉仕葬儀斑に参加し、毎日のように死体を大八車に乗せ、十キロ離れた瀧山共同墓地へと運びました。冬場は雪で轍(わだち)が凍結し、道がでこぼこなので、遺体が踊りだします。何しろ遺体をくくりつける紐すら入手困難だったのです。でもそれはまだましでした。春が来て夏が近くなると、遺体の腐乱が速くなり、荷台が揺れるたびにチャポン、チャポンと体液が飛び散り顔や体にかかります。そしてどこからともなく、銀バエがやってきて、我々の体の周囲を飛び回って離れません。朝鮮人に"日本人、臭いぞ! あっちいけ"と罵られ、石まで投げつけられました。こうして毎日を繰り返していると、人間は少々のことでは動じなくなります。
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