ロシア人・朝鮮人に「性奴隷」にされた日本人女性の悲劇③

歴史通 2017年4月号  総力特集 こんな許せない歴史があった「シベリア・満州の悲劇」
ロシア人・朝鮮人に「性奴隷」にされた日本人女性の悲劇


 日本婦女子の悲劇の痕跡(こんせき)は北方の地・樺太にも刻まれていた。一九四五年戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦。翌九日、突然ソ満国境線を破り日本軍への攻撃を開始した。その最たるものはソ連軍が迫る中、九人の電話交換手だった女性が集団自決した真岡事件が有名だ。

 大本営は一九四四年三月「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していた。真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていたという。八月二十日、真岡沖に現れたソ連艦が艦砲射撃を開始し、真岡の町は戦火に包まれた。その直後、九人が青酸カリを飲んで集団自決を果たしたのだ。彼女たちは、生きたままソ連兵に見つかったら、どのような陵辱(りょうじょく)を受けるかわかっていたのであろう。

 私が彼女たちの苦渋の選択が、決して妄想に起因するものなどではなかったことを確信したのは、終戦直後、満州から朝鮮半島経由で引き揚げてきた開勇(ひらきいさむ)氏の壮絶な証言を聞いたからだ。

皇軍兵士が見たソ連軍の蛮行

「東は虎頭 北黒河 興安嶺の峰越えて 襲ひきたれしソ連軍 げにおそろしやその姿

 鉄輪迫る修羅の途 避難する身に襲ひきて 縦横無尽に踏みにじり 悲惨の極みに血は流る 聞くも語るも血の涙 屍は積りて 山を築き 血汐は流れて川をなす 修羅の巷(ちまた)か 地獄谷(略)我をあざむき襲ひくる ソ連の蛮行 許すまじ 恨みつくさん時くるや 恨み返さん 時やくる」(日本人避難民悲歌)

 この歌は元陸軍憲兵伍長の故開勇氏からいただいた資料の中にあったものだ。

 初めて開氏を知ったのは、"靖國神社に参拝中の元日本軍兵士(開勇)が中国人の暴漢に襲われる"といったニュースがきっかけだった。

 二〇〇八年、開氏が靖國神社を訪れた際、突如中国人の暴漢に襲われ、持っていた日の丸を奪われ、国旗を足で踏まれた上に日の丸を奪われ、国旗を足で踏まれた上に竿を折られたという。開氏は自らの命を顧みず、奪われた国旗を取り戻すために中国人に歯向かった。何故ならその日の丸には鬼籍(きせき)に入った戦友たちの名前が記されていたからだ。

 日本の老人に対する中国人の暴挙は産経新聞やチャンネル桜などで報道された程度で、中国に抗議した政治家もおらず、うやむやとなってしまった。この事件後、私は開氏の戦友たちへの想いや彼が体験した戦争を記録せねばと思い、彼の元を訪ねた。横浜の自宅の部屋には天皇皇后両陛下の写真が飾られ、居住(いずま)いも正しく、矍鑠(かくしゃく)たる様は、さすが元皇軍兵士と思わせるに十分だった。

 開氏は大正十五年、富山県生まれ。昭和十九年に陸軍憲兵学校を卒業し、その年の十二月に北朝鮮の羅南地区・清津の憲兵分隊に赴任している。

 悲劇が始まったのは翌年、昭和二十年八月九日、ソ連軍侵攻により、南方に主力兵を取られていた慶興分隊、清津守備隊は瞬く間に全滅。北朝鮮では天皇の玉音放送がなされた十五日以降もソ連軍の爆撃が続き、日本軍が正式に武装解除したのは、その数日後で、開氏が語る地獄絵図は、その混乱の中で生じていたのだ。

 しかし、ソ連の正規軍がやってきても、北朝鮮にいる日本人の受難が終わったわけではない。
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