慰安婦問題を作った男の肖像⑨

新潮45 2016年 09 月号
「吉田清治」長男、衝撃の告白  「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」 慰安婦問題を作った男の肖像

寂しき晩年

時期的に考えて、吉田清治氏がそれに屈したようには思えない。「慰安婦狩り」の語り部としての活動は、平成三、四年くらいまで続く。朝日新聞の取消記事は、平成三年と四年で六本もある。

 「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 木剣ふるい無理やり動員」(平成三年五月二二日)

 「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 乳飲み子から母引き裂いた」(平成三年一〇月一〇日)

 「窓 論説委員室から 従軍慰安婦」 (平成四年一月二三日)

 「窓 論説委員室から 歴史のために」(平成四年三月三日)

 「今こそ自ら謝りたい連行の証言者、7月訪韓」(平成四年五月二四日)

 「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」 (平成四年八月一三日)
 
 一方で、取消記事のピークの平成四年には次々とその証言の信憑性を疑う報道が出始める。前述の通り四月には、その証言に疑間を感じた秦郁彦氏が済州島で調査を行い、吉田氏の体験のような事実が出てこないことを産経新聞で発表した。週刊誌などでもその発言を疑う記事が出始める。

 平成五年に河野談話、七年には村山談話が発表され、民間での賠償を行うアジア女性基金の枠組みができると、慰安婦問題の盛り上がりとは逆に、メディアは吉田清治氏証言を取り上げることにためらいを見せるようになった。

 舞台は韓国に移っていた。すでに慰安婦であると実名で名乗り出て日本政府に謝罪と補償を求める女性が、メディアの中心にいた。

 そして平成八年に冒頭で書いたクマラスワミ報告書が提出され、平成一○年に旧ユーゴスラビア戦時下の女性暴力問題に付属して慰安婦問題で日本の責任を追 及するマクドゥーガル報告書が出される頃には、吉田清治という人物自体の信用性は限りなく失墜していた。

 朝日新聞もすでに平成九年三月三一日の特集記事で、吉口田証「真偽は確認できない」としている。

 担当編集者の三角忠氏が語る。「吉田さんが一番こたえたのは、慰安婦問題に取り組んできた中央大学の吉見義明さんや関東学院大学の林博史さんなどが学術的な資料としてはちょっと使えないと言い出したことなんですよね。お二方には、そういう言いい方をするとこの本の歴史的証言を貶めることになるんじゃないですかと言ったんですがね。唯一、西野瑠美子さんだけがいまもこの本を事実だと言ってくれている」

 そう言う三角氏も一○年近く会っていなかったというから、晩年の清治氏は失意のなか、寂しい老後だったのではあるまいか。

 そんな清治氏の生活を支えたのも長男だった。清治氏と長男は昭和六一年から千葉県の我孫子市に居を移していた。長男の勤める翻訳会社の子会社がそこにできたためだ。

 「一○年くらいそこで働いて、フリーになりました。朝から晩まで、ときには職場へ寝袋を持ちこんで、仕事ばかりしていました。忙しい日々でした。とにかく生活費を稼がなきゃいけなかった。当時は統合失調症の弟の面倒も見なくてはなりませんでした。離婚して私たちと同居するようになっていたんです」

 そして平成一二年七月三〇日、以前から直腸癌を患っていた清治氏は、結核性の肺炎を起こして死去した。享年八六。

 「亡くなる五年くらい前から寝たきりで、一人で用を足すこともままならず、おむつをあてがっていました。何度も入院を勧めたのですが、医者と学者は嫌いだと、かたくなに拒否して家から離れませんでした」

 新聞に計報は載らなかった。もはや誰も付き合っていなかった。

 三角氏が当時を振り返る。「亡くなる一か月ほど前に一時間ほど電話で話しました。当時、家永三郎さんから電話があって、『私の戦争犯罪』という本が偽書だと言われているようだが、 私はそうじゃないと思う。非常に優れた本だ。他の人がいっさい口をつぐんでいる加害の事実をよくぞここまで書いたと、そんなことをおっしゃられて、ぜひ吉田さんに会いたいと」言われたんですね。そこで吉田さんに電話した。

 そうしたら吉田さんは、あの本の内容はまったく事実です、人から聞いて書いたこともデタラメを書いたわけではない、と話して、いま自分は気力が本当に失せてしまってお話しできるのは電話くらいで、家永先生とお会いしてお話しできるような状態ではないと。もう体力的にも衰弱している状態だったんです」

 三角氏はいまも本の内容を事実であると考えている。「僕は済州島にも行ったと確信しています。他から聞いて主語を自分にしている部分にしても、あってしかるべきだと。歴史的事実としてそれはあるわけですから。それにやっぱり亡くなる前、死期が近づいている中で言ったことは重いですよ。今から思うと、それまでくぐもった言い方だったのがあの時はとても潔かった」

 だが、長男はまったく正反対の思いでいる。「父は結果として大変誤った歴史を作り出してしまった。これは私が生きているうちに直さなきゃいけないと思っています。軍が民間団体に軍の命令書を発行するわけがありません。労務報国会という半官半民の組織や民間組織が軍命で朝鮮人女性をトラックに載せて集めるなんてことができるわけがない。これは歴史的 事実として、長男の立場から真実を定着させていかなければならない。父が暴走し始めた時に私がストッパー役になっていればと、悔やんでも悔やみきれません」

 そして朝日新聞についてはこう語る。二年前、慰安婦報道について訂正記事出す二、三日前に、私を訪ねてきました。取材というよりは最初から筋書き通りの形式的な質間をして三〇分ほどで引き揚げていきました。平成九年の段階でなぜ父に直接取材をしに来なかったのか。その時に真相を究明していれば少しでも慰安婦報道の歪みが正されていたのではと思います」

 二年前に弟が死去した。長男は生涯独身だが、父と弟の世話から解放され、いま人生で初めて二四時間を自分一人だけのために使える生活が訪れたという。私の目にも長男は静謐(せいひつ)な日々を送っているように見えた。八月四日、こんな新聞記幕が掲載された。

 「ソウルの日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像と同種の像の除幕行事が、8月中にオーストラリアの最大都市シドニー郊外を含め10ヵ所で行われ、年内には像の建立地が韓国内外で50ヵ所を超える見通しとなった」(産経新聞

 始終穏やかに語った長男の胸中に、真の平穏が訪れる日は遠い。   (了)
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