慰安婦問題を作った男の肖像⑤

新潮45 2016年 09 月号
「吉田清治」長男、衝撃の告白  「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」 慰安婦問題を作った男の肖像

 「ソ連留学は私たち兄弟の意志で、父とはまったく関係ありません。貧しかったので、普通に大学へは行けなかった。高校を卒業したら働くか、ただで行ける大学に進むしか選択肢がありませんでした。

 東京にいたなら防衛大学校も考えられ る。でも住んでいるのは下関です。それでいろいろ探したんですが、フルブライト留学生は旅費は自分持ちだった。一方、 ソ連留学は総評(日本労働組合総評議会)が橋渡しをしていて旅費も生活費も全部無料。それで試験を受けてみたら受かった」

 ただし、まったく父・清治氏の関わりがないわけではなかった。

 「試験に受かったから行けるわけではないんです。誰かの推薦が必要だった。私たちがいた小野田セメントの労働組合は合化労連(合成化学産業労働組合連合)と言って、後の総評議長となる太田薫氏が委員長だった。彼が下関に来た際に、父が推薦をもらえるょう頼みこんだ。それで推薦が決まったんです」

 当時、ソ連は社会主義を学ばせるため、周辺国から積極的に留学生を受け入れていた。多くの留学生は、モスクワ大学で一年問語学研修をした後、各地の専門分野に秀でた大学に転入した。

 長男は昭和四四年ごろモスクワ大学に留学、その後ウクライナのキエフにあるハリコフ大学物理学科に進学した。次男も一年遅れでモスクワ大学を経て、ハリコフ工科大学に留学した。

 しかし吉田兄弟はともにソ連の大学を卒業できなかった。

 「父が合化労連に頼んで推薦状をもらったことが会社にわかってしまって、解雇された。両親の仕事がなくなったわけですから、戻ってきて働かなくてはならなくなった。だから留学していたのは三年半ほどです」

 やむなく帰国した兄弟は北九州市八幡西区にある自動車整備工場に板金工として就職した。帰国当日に求人雑誌を購入し、会社に電話してその場で決めたという。翌日から工場に通った。会社が用意してくれた職場近くのアパートに居を定めた兄弟は、そこに両親を呼び寄せる。

 以来、一家の家計を支えるのは、留学帰りの兄弟となった。

 「父は健康がすぐれないこともあり、全然仕事をしていなかったですね。あんまり給料がよくなかったので、私は土曜日曜は別にガードマンのアルバイトをしていました」

 その後、一家が上京するのは、昭和四八年のことである。

 兄弟はその前年に"ソ連留学記"を出版していた。自費出版ではない。長男次男の名前が出ているため署名は秘す。

 当時、ソ連留学は珍しかった。このため留学中から帰国のたびに編集者が来て話を聞いて行ったのだという。

 「自分で書いたというよりは、出版社の人が来て、何度もインタビューしてまとめたものなんですよ」と長男は振り返る。

 その内容は、留学中の日々の暮らしや学生、特に女子大生との交流などを軽いタッチで綴ったものだ。

 どうもこうした関係で知り合った人物の勧めで上京したらしいが、一家は神奈川県横浜市鶴見区に引っ越し、長男は川崎にあった東芝のトランジスタ工場に勤めることになった。

 そこで一家はそれぞれ大きな転機を迎えることになるのだ。

公安警察と吉田家

 まず長男について。

 さらりと驚くべき話が披露された。その話を聞いた時、何度も聞き返さずにはいられなかった。

 「公安警察の方から、日ソ合弁の船会社で働かないかという話があったんです。そこでロシア語ができる人を探しているので、入社して彼らを監視してほしい。横浜港に入るソ連船の船舶業務を全部取り仕切っている会社ですから、重要書類が山ほどあるわけです。それを随時コピーして渡すだけでなく、公にできない活動もしていました。弟も別の会社に就職させるということでした」

 ソ連に留学し語学が堪能ということで、兄弟とも公安警察からリクルートされたというのである。昭和五一年のことだ。

 にわかには信じがたい話だが、当時、彼を勧誘した神奈川県警の刑事にもインタビューすることができた。仮に堂上明氏とするが、七八歳の彼の記憶は鮮明だった。

 「東芝のパーツ工場にソ連の大学を卒業した人物がいるという情報が入ってきて、会いに行きました。当時、水上警察のほうから船会社でロシア語ができる人間を求めているという話があった。これはすぐに就職させられると、兄は東洋共同海運に、弟は別の運輸会社の横浜支店に就職させました」

 堂上氏は、昭和三七年に警察学校に入学し、翌年から神奈川県警の戸部署、横浜水上署、本部外事課、鶴見署などに勤務し、公安警察の最前線で諜報活動を行ってきた人物である。途中、ロシア語の教育も受けている。

 彼は吉田家と非常に親密な関係を築き、一家ぐるみの付き合いに発展する。清治氏の妻フサエさんは昭和五四年に死去するが、その葬儀を取り仕切り、翌年の次男の結婚式にも親族として出席している。
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