慰安婦問題を作った男の肖像④

新潮45 2016年 09 月号
「吉田清治」長男、衝撃の告白  「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」 慰安婦問題を作った男の肖像

 「テレビが買えない貧しい家庭を象徴するものがラジオでした。父は教育に関して厳格でしたので、家では歌謡曲など聞かせてもらえなかった。でもこの時は楽しそうな様子に思わず笑みがこぼれたという内容で、短い文章の中に幸せな家族の情景が浮かぶと高い評価を得たのです。父は福岡に行って表彰され、賞金をもらってきた。あの頃が吉田家が一番幸せだった時かもしれません」

 この頃、清治氏は朝鮮人の経営する。パン屋に勤めていた。

 「その経営者は戦前からの付き合いだったので、父の首を切るにも切れない状態だったそうです。だからその社長はこれで辞めさせることができると喜んだそうです。一家はその賞金で引っ越すのですが、父はそのお金で三回も四回も引っ越せると言ってました」

 清治氏によれば、懸費に応募したのはこれだけではない。

 「応募のほか、ラジオとかテレビのモニターもよくやっていました」

 いまで言う投稿マニアだったのか。

 やがて清治氏はもうーつ、大きな懸負で佳作となる。

 昭和三八年、週刊朝日が「私の八月十五日」の手記を募集し、結果が同誌八月二三日号に掲載された。特選は一名、後に作家、エッセイストとして知られる近藤富枝である。記事には他に入選五名、佳作一○名の氏名が出ている。その佳作のひとりに吉田東司の名前がある。それは清治氏のことだった。

 入賞作までは全文掲載されているが、佳作は編集者が抜粋しながら紹介してい る。以下、引用する。

 〈特選から佳作に至るまでの各編は、すべて、戦争の被害者としての立場から、八月十五日を想起したものばかりであった。しかしただひとりだけ、下関市の会社員吉田東司氏(四九)は、加害者の立場からあの日を回顧する。

 「私はそのころ山口県労務報国会動員部長をしていて、日雇労務者をかり集めては、防空壕掘りや戦災地の復旧作葉に送っていた。労務者といっても、そのころはすでに朝鮮人しか残っていなかった。 私は警察の特高係とともに、指定の部落を軒なみに尋ねては、働けそうな男を物色していった」

 「奴隷狩りのように」と吉田氏自身もいう。その最中にはいったのが終戦のニュースだった。戟鮮人の報復への恐れは、直ちに頭に浮んだ。帰宅した吉田氏の家の前には、案の定、二十人ばかりの朝鮮人が集っていた、動員された朝鮮人の行先を教えろという。間いつめられた吉田氏はついに捨てばちになった。

 「私は靴ばきのまま座敷にかけ上がると、床の間の軍刀をつかんで玄関へとび出して叫んだ。

 『どうせ戦争に負けたんだから、いまここで死んでやる。おれのしたことに文句がある奴は、殺して道づれにするから前へ出ろ!』

 私は気ちがいのように逆上し、軍刀を抜いて彼らに近づいた。彼らはわめきながら逃げ散った。私はこれまでにしてきたことも、これからしなければならないこともわからなくなって、真夏の太陽の下でむなしく軍刀をふりまわしていた」〉

 山口県労務報国会下関支部の元動員部長・吉田清治としての活動の始まりだった。

 抜粋部分だけでも手慣れた文章である。最後の一文など非常にドラマチックで、話を盛り上げて書く手法を持っていることがわかる。

 長男はこの投稿について少しだけ父から話を聞いていた。

 「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半は共産党員だったそうです。終戦の八月一五日か翌日、家に集まってきた彼らに軍刀を振り回したというのは嘘だと言っていました。当時、軍人でもない父に 軍刀は支給されていなかったのです」

 それなら話自体の信憑性も疑われるが、この内容を事実としてすぐに著作に取り込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を執る歴史研究家の朴慶植(パク・キョンシク)氏である。強制連行文献のバイブルとされる彼の『朝鮮人強制連行の記録』に引用されるのだ。

 ただこの時点では、記事は労務報国会の仕事の範疇での体験であり、「慰安婦狩り」をしていたとも、済州島に行ったとも書いていない。

 次に彼が労務報国会元動員部長として書くのは、昭和五二年。最初の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』である。一四年後のことである。

 この間の吉田氏の足取りはこれまでいっさいわかっていなかった。

長男次男のソ連留学

 八億ドルの援助資金と引き換えに韓国が請求権を放棄した日韓基本条約。それが結ばれた昭和四〇年前後の数年間、吉田清治氏は、一家で小野田セメントの子会社「小野田化学工業」の寮の住み込み管理人をしていた。

 「ここから門司高校に通いました」と長男は振り返る。

 当時、生活に大きな変化があったのは、その長男と次男だった。相次いでソ連に留学しているのである。

 当時はまだ留学はおろか、海外に行くことさえ非常に難しかった。このため、一部では、二人の息子のソ連留学に関し、清治氏はソ連のスパイではないのか、コミンテルンに関係しているのではないか、などと囁かれてきた。
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