慰安婦問題を作った男の肖像②

新潮45 2016年 09 月号
「吉田清治」長男、衝撃の告白  「慰安婦像をクレーン車で撤去したい」 慰安婦問題を作った男の肖像

「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやってることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない」(平成八年五月二・九日号)

 また自ら済州島の調査を行い、すでに平成四年に産経新聞で証言の信用性について疑義を投げかけた現代史家の秦郁彦氏もこんなエピソードを書いている。
 
 電話で清治氏と話した秦氏が、「『著書は小説だった』という声明を出したらどうか」と勧めたところ、「人権屋に利用された私が悪かった」「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら・・・…このままにしておきましょう」と話したという。
 
 吉田清治氏は意識的に歴史を捏造した。それは明らかである。ではなぜ、何のためにそうしたのか。虚偽の証言を続けてきた動機は何なのか。それらはいぜん謎のままである。いやそれどころか、実は清治氏がどんな人間であるか、どんな経歴であるか――どこで生まれ育ち、何をしてきたのか、その学歴も職歴も実はよくわかっていないのだ。
 
 いったい吉田清治とは何者なのか。
 
 今回、私は吉田清治氏の長男のロングインタビューに成功した。そこからわかってきたのは、思いもよらない新事実だった。

謎の生い立ち

 長男は関策北部の県で質素な一人暮らしをしていた。現在六六歳。翻訳で生計を立てているという。小柄で温厚、とてもまじめそうな風貌だった。
 
 「父が犯した慰安婦強制運行の握造について、吉田家の長男として、日本の皆様にたいへん申し訳なく思っております。できることなら、世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい。父の過ちを赦したい、少しでも罪滅ぼしをしたい、そういう気持ちから、私の知りうることをすべてお話しします。私自身、なぜ父があんなことをしたのか知りたいのです」
 
 と、吉田清治氏の長男は語り始めた。清治氏は平成一二年七月三〇日に死去するが、それまでずっと一緒に暮らしてきたのが、この長男だった。
 
 清治氏は、その生年からしてはっきりしていなかった。出生地も諸説あった。さらに言えば、門司市立商業高校に通ったが、その卒業名簿(平成一〇年発行)では第一一回卒業者欄の物故者のほうに入っている。
 
 今回、長男から見せてもらった資料から、清治氏は、大正二年一〇月一五日生まれとわかった。出生地は、福岡県鞍手郡宮田町大字長井鶴。本籍は福岡県遠賀郡芦屋町大字芦屋である。
 
 本人は本籍などを山口県としていたが、お隣の福岡県で生まれ育ったわけである。そして本名は、吉田雄兎(ゆうと)という。これはすでに判明していた事実だが、長男によれば、「本来でしたら雄治という名前になるはずだったのですが、役場が書き間違えて治を兎としてしまった。父は、本名が好きではないと言っていました。それでペンネームをつけて清治としていたのでしょう」 とのことだ。父は音吉、母はタメ。長男だが、姉が三人いたという。
 
 清治氏は、大正八年、わずか五歳で吉田家の家督を相続している。灘父の藤太郎が亡くなったあと、父を飛ばして雄兎が戸主となっているのだ。
 
 その経緯は不明だが、祖父・藤太郎は遠賀郡になった三菱石炭鉱業の貯炭場の主任をしており、当時は羽振りが良かった。芦屋の役場の向かいに土地を買って家を建てたのは、この藤太郎だったという。急死した原因は、当時大流行したスペイン風邪。地元の福岡県立門司商業高校(門司市立商業高校の後身)の記念誌にも、大正七年から八年にかけて北九州で大流行とある。
 
 幼くして祖父から直接家督を相続した清治氏だが、この他にも吉田家には不可解な記録がいくつもある。清治氏の従兄従弟として他家から二名が入籍しているほか、清治氏と四歳しか違わない朝鮮人が清治氏の養子となっているのだ。これは後に詳しく記す。
 
 吉田氏は門司市立商業高校に学び、昭和六年に卒業。そして、「東京の大学をでる」と、自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)には記している。どうやらこれは法政大学らしいが、進んだ学部、卒業したか中退したかは定かでない。法政大の名簿にその名前はない。
 
 その後は何をしていたのか。
 
 前掲書では、昭和一二年に満州国国務院地籍整理局、昭和一四年から一年余り陸軍航空輸送隊の嘱託、一五年に中華航空上海支店に勤務していたという。同年六月に金九(朝鮮独立運動家)を輸送したかどで逮捕され、懲役二年の判決を受け、昭和一七年に諌早刑務所から出所したことになっている。そして同年、問題の山口県労務報国会下関支部の動員部長に就任したというのだ。
 
 これには以前から疑義が差し挟まれてきた。歴史学者・上杉千年氏の調査では、中華航空社員会で清治氏を記憶する人はいなかったし、逮捕についても先の秦郁彦氏の追及に「アヘン密輸に絡む軍事物資横領罪」と答えたことがある。また逮捕された人物が出所後すぐ、半官半民の半ば公職に就くおかしさも指摘されている。
 
 長男言う。「父は胸のレントゲンを撮ると白い影が写ったんだそうです。結核と間違われるけれども、結核ではない病気なんだそうです。それで軍の徴用を免除され、軍属みたいな形でいろいろな仕事をしました」
 
 そして、「上海の航空隊とか、満州で地籍整理をやっていたのは聞いています。満州では、一年間現地の学校で勉強して中国語がしゃべれるようになった。それで部下の朝鮮人二人、中国人を五人から一〇人くらい、馬車や馬、ラバに乗せて調査に行った。そこでは航空写真をもとに中国人が測量し、彼らを朝鮮人に管理させていたということです」
 
 清治氏はこの満州で李禎郁という人物を養子にしている。昭和一二年四月のことだ。清治氏と四つ違いだから一九歳の若者である。禎郁氏はその五年後、満州で日本人と結婚する。
 
 清治氏は前掲の自著で、東京生まれの金永達なる人物を昭和二一年に養子とし、 同年小学校教師の日本人と結婚、直後に小倉連隊に入り、昭和一三年九月、中国 の間島省で戦死したと書いている。
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