約半年前に記事を書いて、下書きのまま放置していました。

諦めない力 フィギュアスケートから教えられたこと
諦めない力 フィギュアスケートから教えられたこと 単行本(ソフトカバー) – 2018/3/2
佐藤 信夫 (著)

たぶん、佐藤先生が書いたものではなく、インタビューをまとめたものなんじゃないかなあと思っていたら、予想通りでした。でも、買って損はしない内容でした。

信夫先生はお母さんが戦前スケートをされていて、お母さんが当時教わっていた永井康三先生を手伝うようになって、それに小さかった信夫先生がついて行くようになったことで、スケートを始められたそうです。やっぱり、すごいご家庭だわ。だって、信夫先生が子供の頃は、敗戦後で日本がまだ貧しい時代でしょう。そんな時代に、フィギュアスケートをしていた方がお母さんなんですもの。

それから、信夫先生も久美子先生も全然、関西弁のイントネーションが出て来ないけれども、お二人とも大阪出身なんですよね。東京に出て行って、もう50年以上経つと方言は抜けちゃうんでしょうね。というか、お二人とも耳がいい(音感がある)のかもしれません。

本の前半は以前放送された「ワンダフルライフ」の内容に沿ったものでした。私は知らなかったんですが、いつもニコニコと冷凍保存されたように若々しい久美子先生は信夫先生の教え子だったとは!これには非常に驚きました。一緒に山下艶子先生の所に十年も居て、そこから先輩に当たる信夫先生が後輩の久美子先生を教えることになったんですねえ♪

田村明子さんの「氷上の光と影」でもありましたが、佐藤先生の娘さんである佐藤有香さんのスケーティングは滑らかで、「スケーターの中のスケーターである」と評される程。正にパンの上にバターの滑りは有香さんの滑りの事を指すんですね。

氷上の光と影 知られざるフィギュアスケート
氷上の光と影 知られざるフィギュアスケート 単行本 – 2007/2/24
田村 明子 (著)

そんなスケーティングスキルを上手く指導される佐藤信夫先生は、中野園子コーチが東京の大学に来た時、ちょうど4年指導されたとはこれまたびっくりしました!だから、神戸ポートアイランドフィギュアスケートクラブの三原舞依さんと坂本花織さんの滑りが非常に滑らかなのが合点がいきました。

村主章枝さんは佐藤信夫先生にとって一番スケーティングを教えるのに時間がかかった生徒だったそうです。村主姐さんは佐藤先生の所に来た時はまっすぐにしか滑らないスケートで、そこからエッジに乗せることを体に覚えさせるというのは、結構時間がかかる作業だったんですね。村主ワールドが出来上がったのも、佐藤先生にスケーティングスキルを叩き込まれた結果と言えるでしょう。

真央さんについての部分は上手くまとめられそうにないので、転記しますね。

P170 僕も浅田真央も諦めなかった

 浅田真央が僕のところに来たのは2010年、彼女がバンクーバーオリンピックで銀メダルを取ったあとです。彼女をお預かりすることには、迷いもありました。一回はお断りもしました。あのレベルまで行ってしまっているのを、そこから習慣を変えようなんて、そんな無茶なことをしたらおかしくなります。それでもなぜ引き受けたかと言ったら、彼女のお母さんの心根に動かされたというかね。本当に常識では考えられないことです。

 でも、やると決めたからには、ほかの選手たちと同じように、スケーティングから教えました。浅田真央だから別な道でとか、そういう考え方は僕にはできないですから。僕の考えではスケートというのはこういうふうに滑るものなんです、ということをまずは伝えるんです。初心者を相手にするような話ですけど、実際に滑りながら、一つずつ積み上げていく。やっぱり90パーセント感覚の世界ですから、言葉では伝わらないんですよ。「こうやって滑ったら、氷からこんな音が出てきたでしょ?」ということから始まって、エッジの感触を順番に伝えていく。あのレベルのスケーターに、本当に失礼な話ですよね。

 それはやっぱり恐ろしかったですよ。一つ間違えば壊しちゃうじゃないですか。技術技術というけれど、もとは心の問題ですからね。その心が壊れちゃったらすべて壊れるわけですから。

 でも、僕も真央も両方諦めなかった。たとえぶつかっても諦めなかった。何か困ったことがあったら、そこでどちらかが考え方をわずかに変えていく。目標は同じ方向にあるわけですから。

(後 略)

P174 「明日また頑張ろう」の精神で

(前 略)

 真央は表面上は黙々と練習していたと思います。何を言っても無視していると感じることが多いくらいでした。そうやって、聞いてないように見えても、次の日になると、ちゃんとやることはやっているんですよ。

 でも、表情には出さなかったけれど、彼女も心の中では悶々としていたでしょうね。そして、「もう絶対になんとかしてやろう」と思っていたはずです。それでちょっと目標に近づいてきたら、「ほら見たことか!」・・・・・・などと得意気な態度は見せず(笑)。でも、表面上は知らん顔していても、僕は彼女の変化を感じていました。お互いに言葉には出さないんですけどね。そういう人たちじゃないんですよ。あのくらいのレベルの選手になると、みんなそうです。

 だから僕もいろいろ言いたいんだけど、言わないでおくことも多かったです。それはやっぱり駆け引きの、綾ですよね。

P176 実を結んだルッツ修正

 スケーティングを一からやり直して、順番に見直していくと、ジャンプなども「もう少しこうすれば回転軸が細くなるんじゃない?」といった感じで徐々に変わっていきます。

 真央のジャンプの話というと、みなさんトリプルアクセルのことをおっしゃるけれど、跳ぶか跳ばないかでつぶかることがあるなら、それは僕のほうが負けることにしていました。根気よく同じ話を続けるんですけど、頭ごなしに否定したら全部つぶしちゃうことにもなりかねない。だから、「今日はあなたの言うようにしていいよ」と、すっと負けてしまうんです。

 もちろんトリプルアクセルに決定的に自信を持っていれば使いますよ。だって点数が高いんですから。点数の高いジャンプから順番に使っていかなきゃ損でしょう。でもそれだけに頼っていたら不安定要素にもなるから、あれもやってみよう、これもやてみようとなるんであって。

 ただ、練習していく順序としてはやっぱり回転数の少ないほうが楽です。だからできるものからやって、最後の一番回転数の多い難関、トリプルアクセルに挑戦するという順番になります。そして試合には一番確率の高いものから選んでいきます。だから、どの種類のジャンプを入れるかということは決して好き嫌いの問題じゃないんです。

 僕が一番感動したのは、浅田真央のルッツです。彼女はものすごくルッツジャンプで苦労したんですよ。真央の以前のルッツは左のバックアウトサイドエッジで滑ってきて、トウをつくときに右足に全部体重がかかってしまっていました。そうするとそこで軸がずれてしまうので回転しないし、ルールでもロング(正しくない)エッジとして減点されてしまうんです。

 そうれをなんとかしようという練習をどれほどやったか。気の遠くなるほどの回数をやりましたね。でも最後の最後にエラーがつかない、立派な3回転リッツとして評価されるようになった。

 彼女がスケートを始めたころは今ほどエッジエラーが厳格ではありませんでした。もちろんいいことではないけれど、そういう時代だったんです。それが2003年に採点システムが変わって、明確に減点されるようになった。でも一度ついた習慣というのはそんなに簡単に直るものじゃないから、普通はみんなその時代で現役を終えてしまうものなんです。完成させるのはその失敗を見ていた次の世代の人。でも彼女は自分自身で立派に認めさせました。

 やりとげたときは、やらせたほうが驚きました。最後の最後まで頑張って、ついに(テクニカルパネルの)3人が映像で確認しても「これはクリーンエッジ」だと言わせたんです。僕にしてみたらびっくり仰天ですよ! 途中で「もういいよ」と言ってしまっていたらこの日は来なかったわけですよね。でも彼女は決して諦めなかった。本当に生徒に教えられた思いです。

 真央の執念には、やっぱり敬服するものがあります。それはもう、見ていてかわいそうにと思ったときもありましたよ。でも、僕が降りてどうするんですか。知らん顔してなきゃいけない。鬼ですよ。鬼(笑)。

 ちゃんと実を結ぶというとがわかっているなら違うでしょうけれど、やってみなきゃ結果はわからないものです。道中は、ここまでやらせていいのかという不安をつねに伴っていました。でも今さらやめるわけにもいかないし、ダメ元で頑張ってみようという気持ちでね。

 やりすぎれば故障が出るし、やりすぎないように抑えるのも大変でした。僕の目の届かないところ、たとえば僕が中京大学のリンクに行ってないときとか、そういうところではダメだと言っていても、やっぱり跳んでしまっていたでしょうし。

(後 略)

P180 素で見ていたソチのフリー

 ソチオリンピックのショートプログラムで真央はジャンプのミスが続き、16位というスタートになりました。その時の僕は、困ったというよりも、正直に言うと困惑していました。どうしてこんなことになっちゃうの?と。それまで技術的にはなんの問題もなく、朝の練習でも普段通りの様子でしたから。とはいえ、五輪の緊張感やプレッシャーから来る迷いが、やっぱりどこかにあったのかもしれません。でも、ここでああだこうだと言ったら、むしろそこからぐちゃぐちゃになってしまうかもしれない。だから、僕は一歩引いていようと思っていました。

 でも、何も言わなかったというわけではないんです。ショートプログラムが夜遅かったので、会場でちょうど空いていた男子の更衣室に行って、真央とタラソワ先生のアシスタントだったザンナさんと3人で少し話をしました。「あなたが今までやってきたことを思い出してごらん。どこに恐れなきゃいけないことがあるの? うまくやろうとかではなくて、今自分が持っているものをそのまんまやればいい。あなたが今まで真剣に取り組んできた気持ちを込めてそのまま出せば、おのずと答えは出るよ」と。

 こういうときに策を弄(ろう)するようなことは、100パーセント僕はしません。ただ正直に、自分の気持ちを話しました。それまでの彼女の努力を見てきましたから、持っているものをそのまま出せばこのまま終わることなんてないはずだと、心の底から信じていたんです。「世界中の人が、あなたがここまでやってきたことを見て、あの人は頑張ってるね、努力してるねって評価してるでしょ。それをそのまま、自分を信じてやればそれなりの結果が出るよ」と。

 真央は聞いていたのかいないのか、特に反応しなかったのでわかりませんでしたが、僕はちゃんと本音で話したつもりです。

 フリーで実際に彼女が滑っているのを見ていたときは、いわゆる素ですよ。自分が選手として出ている試合のときもそうだったんですが、試合の日は「このまま寝ちゃって明日の朝になっていればいいに」と思うくらい、嫌で嫌で。でも自分の順番が近づいてくるにつれて、ものすごく気分が高揚して、上がってくるんです。ちょっとした物音でも震えながら怒りたくなるような心理状態。そこから自分の番までの間にだんだんシーンと感覚が研ぎ澄まされてきて、そのうち何も聞こえなくなる。聞こえるのは音楽と、先生の声だけ。そこからすっと滑り始めると、無の世界に入ってしまうんです。そうするとたとえぶっ倒れそうになっても、淡々と最後まで頑張れるものなんです。あのときは、それに近い状態でした。自分が滑るわけじゃないのに。

 真央の滑りは、ほぼ練習通り。持っているものを出しきれたということです。だから戻ってきた彼女にも言ったんですよ。「ほらね、言ったでしょ」って。

佐藤信夫先生という日本で第一人者の偉い先生でも、真央さんのコーチに就任する時はかなり悩まれたでしょうね。もう長くないという状況の中、真央さんのコーチをお願いしますと頭を下げられた真央さんのお母さんの願いを断る事は出来なかったと信夫先生はおっしゃっていましたね。

真央さんは信夫先生に見て貰って、スケーティングスキルが伸びたし、精神力もさらに高まって、非常に実りのあるもので良かったですね。
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朝日新聞デジタル  フィギュア特集Kiss and Cry
感性くすぐる浅田真央の滑り 佐藤コーチの心に残る選手
配信日時:2016年3月27日07時28分
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3P4V6DJ3PUTQP00Q.html

■佐藤信夫のフィギュアよもやま話

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今季の浅田真央。「スケーティングに磨きがかかっている」と佐藤コーチは語る

 フィギュアスケートという競技名は、氷上で図形を描くところから来ている。読者の皆さんが、観客席やテレビでご覧になる時、ジャンプに目が行きがちになると思うが、スケーティングもだいご味の一つだ。

 スケーティングでアドバイスすることは、一つだけ。「体重移動で滑る」ということだ。自転車でカーブを曲がる時に、曲がりたい方向に体を傾けるのと似ている。選手たちはスピードに応じて、体の傾斜を深くしたり、浅くしたりしながら、滑っている。

 技術が備わっている選手の滑りは、砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、スーッと伸びていく。漠然と演技を見ているだけでも、印象に強く残る。1968年グルノーブル五輪男子銀メダルのティモシー・ウッド(米)や、72年札幌五輪女子銅メダルのジャネット・リン(米)の演技は、今でも私の心に残っている。

 優雅で気持ちよさそうに滑っているように見えるが、実は白鳥が水面下で足を激しく動かしているように、過酷だ。猛烈な練習がなければ、体全体を使った滑りはできない。感性も重要な要素だ。これは、教えることはできない。様々な経験を積みながら、徐々ににじみ出てくる。

 教え子の浅田真央も、2014年ソチ五輪の少し前から、観衆の感性をくすぐるような滑りができるようになったと感じる。1年の休養を経た今季は、さらに磨きがかかっている。年齢を重ねても、スケーティングは成長するのだ。

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1972年札幌五輪で銅メダルを獲得したジャネット・リン。「氷上の妖精」と呼ばれた

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演技を終えて、得点表示を待つ佐藤コーチ(右)と浅田

真央さんは佐藤信夫コーチに師事して、滑りが良くなったと言われるけど、元から真央さんはスケーティングが上手だったように思う。滑らかで優雅で、ひとつひとつのポジションが美しかった。(今も相変わらず美ポジ♪)

劇的に良くなったかどうかと言われたら、私は素人なので師事前後の滑りの差異がよく分からない。滑る時に上半身の上下動がなくなったと言われているけど、そうなのかもしれない。

それぐらい、違いを見付けるのが難しい技術なのだと思う。スケートは僅かな差をコツコツと地道に積み上げていかないと上達しない技術力が要るスポーツなのね。

高難度のジャンプが跳べるということは、基礎をおろそかにして跳べることはない。基礎がきちんと備わっているから、きちんとできる。基礎がないのに、無理矢理身に付けようとすると、身体を痛めて、戦線離脱する。上手な選手ほど、転倒も怪我も少ない。

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佐藤信夫コーチの門下生と言えば、小塚崇彦さん。小塚さんはつい先日惜しまれつつ現役を引退してしまったけれど、小塚崇彦と言えば“イーグル”と言われる程。

磁石のように滑るというのは小塚さんのイーグルのことを指すのだろうなあと思う。
金メダルを目指し、挑んだソチオリンピック。
だが、ショートプログラムで、誰もが目を疑う結果に…
フリーを翌日に控え、どん底の状態にあった浅田真央に、佐藤は、ある言葉をかけた。

『真央が倒れたら、止められてでも僕が必ず助けに行くから』

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実は、同じ言葉を、35年前にかけられた選手がいる。
佐藤の教え子だった、松村充。
レイクプラシッド・オリンピック、選考会の当日、松村は、フェンスに激突した。
膝に、歩くことさえできないほどの痛みが走った。
誰が見ても、出場は不可能だった。

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佐藤)充・・明日は・・
松村)僕は出ます!信夫先生、僕は絶対 出ます!
佐藤)お願いします!なんとか試合に出られるように、痛みを取ってやってください。
先生)そんなことをしたら、この子は歩けなくなりますよ。そうなったらあなたは、この子の面倒を一生見られるんですか?

その時、佐藤が返した言葉・・
『一生みるに決まってるじゃないか』

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そして、無理に痛み止めを打ってもらい、選考会を通過した松村。

松村「後になって振り返ると、あの時はこういう覚悟だったんだなとかね」

選手の人生さえ背負う覚悟

この佐藤の覚悟を強く実感したのは、それから1年後のことだった

松村は、レイクプラシッド・オリンピック直前に高熱で倒れ、練習もできないまま、試合当日を迎えた。
どん底の状態にあった松村に、佐藤はこう声をかけた。

『君が倒れたら、リンクの中まで、叱られてでも助けに行く。だから、ぶっ倒れるまで演技しろ!』

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もし、コーチが土足のままリンクに上がれば、ほこりや砂が撒き散らされるため、リンクの整氷作業が必要になり、試合は中断しかねない。

つまり、それは次の出番に向け、集中力を高める選手への『妨害』に等しい行為…
どんな叱責を受けても、おかしくなかった。

松村「だからそれって覚悟がなきゃ言えないじゃないですか。『誰に止められてもいい、俺はお前を助けに行く』って言った時に、すごいな、本当にそう思ってくれてるんだなって思った。」
 
佐藤の言葉は、松村の背中を押した。
最高の演技を見せ、見事8位入賞を果たした。

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僕がついているから、何も心配することはない…
君はただ、全力で滑ればいい…
この松村との話を、佐藤は浅田に言って聞かせた。
それを聞いた浅田は…

浅田「全身全霊で とにかく全てを出そうって思いました。」

そして、迎えたソチオリンピック、フリー演技…
佐藤と共に歩んできた、3年間の、全てをぶつけた。
それは、佐藤信夫の覚悟に、浅田真央が、渾身の演技で応えた瞬間だった。

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゚・*:.。. ☆(●´Д`)終ワリ!!(´Д`○)☆.。.:*・゜
コーチとしての覚悟

佐藤コーチの1日を追った。
早朝5時半すぎ。
共にコーチを務める妻・久美子さんと向かったのは、新横浜のスケートリンク。

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すぐさまスケート靴に履き替え、リンクに向かう。
佐藤を待っていたのは、大勢の子どもたち。
佐藤が教えているのは、トップ選手だけではない。
まだ初心者の子どもから、大学生まで、試合の日以外は、毎日このリンクで教えているのだ。
その指導は、時間を区切ったマンツーマンが基本。
長い時は1日8時間以上、氷の上に立ち続ける。
選手が「やりたい」という課題に取り組ませ、できるまで、とことん待つ…

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できるまで、待つ

これが、佐藤の『コーチとしての覚悟』

佐藤に20年間師事している、小塚崇彦によると…

小塚「究極は怒ってガシャンっていう風になりますけど、それになるまで、ずっと待ち続けてくれる。
我慢してその選手を待ってくれるっていうのは、僕たちにとっては有り難いことで、自分に考える時間を与えてくれたり、自分の感覚を尊重してくれることが難しいところなんじゃないかなと思うので(そういう面では)名コーチだと思ってます。」

佐藤「フィギュアスケートというスポーツはあまりにもやることが細かい。だからひとつずつ教わってひとつずつ身につけていかないとその先に繋がっていかない。」

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だからこそ…
あきらめそうになった時は、厳しく怒る。

佐藤「本当は友達になりたいんだけど、友達になりきったら、言うこと聞かなくなるから、どうしても嫌われ者、怖い存在でいなきゃいけない。」

トップ選手に対しても、子どもたちに対しても、厳しい姿勢は変わらない。
そんな佐藤信夫コーチの、普段の顔は?

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現在、同じくフィギュアのコーチを務める、妻・久美子さんと、娘の有香さんに聞いてみると…

久美子「それがね…あんまりすごくないんですよね。普通の堅いおじさんっていう感じ。」
有香「時々、面白いジョークを言ってみたり、踊り出したり、すごく楽しい楽しいお父さんです。」

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究極の覚悟

4年前のバンクーバーオリンピックで、銀メダルを獲得した浅田真央。
だが、そこに笑顔はなかった・・

その数ヶ月後…次のソチオリンピックに向け、浅田は決意した。
『もう一度、スケートを基礎からやり直したい』

浅田の弱点…それは、ジャンプの前後で動きが止まり、曲との調和が途切れてしまうことにあった。
そこで、浅田親子が選んだコーチが、スケーティングの基礎の指導に定評がある、佐藤信夫だった。

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佐藤「今さら、私がどうのこうのっていうことでもないでしょっていうことで、ちょっとお断りしてたんですけど…」

何度も世界の頂点に立ってきた浅田真央。
培ってきた技術は、体に染み込んでいる。
それをイチから直すということは、一流の選手を壊してしまう可能性だってある…
だが…

佐藤「お母さんのお顔を見てても、その時から決していい状態ではない。本当にあれだけお願いされたらやっぱり、それ(お母さんの思い)に負けちゃったって感じですね。」

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佐藤は、浅田真央のコーチを引き受けることを決意。
徹底的に基礎を叩き込んでいった。

佐藤「ビルを建てるのと一緒で、基礎がしっかりしていないと、ある所まではいっても、そこから先はちょっと難しい。基礎に時間をかけて、しっかりしたものを作れば、上にずっと積み上がっていく。」

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そして、互いに我慢と根気の日々が続き…
3年の歳月をかけ、2人が理想とする演技は、いよいよ完成に近づこうとしていた。

(´・ω・`)つ④に続く~◇
不器用だからこそ 基礎をやり続ける

佐藤の7歳年上で、日本のトップ選手だった、杉田秀男。彼は、中学生時代の佐藤について、こう語る。

杉田「彼の滑りを見た時に、この年齢でこれだけ基本がしっかりした滑りをする子ってのはちょっと脅威だったですよね。負けるとしたら、この子だなと感じた。」

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必死に基礎に取り組んだ佐藤は、わずか15歳で全日本初優勝を飾る。
だが…

1950年代。日本のスケート界は、黎明期。フィギュア先進国である欧米とは、大きな差があった。
ビデオすら普及していなかったため、欧米の情報を手に入れることも難しい時代。
そこで…
佐藤たちは、海外選手の演技を撮影した連続写真をパラパラ漫画にして、必死に技術を研究した。

その努力は実を結び、国内では敵なしの存在に…
さらに、フリーの演技では、 日本人で初の二回転ルッツジャンプに成功。
名実共に、日本のトップ選手となった佐藤。
そして彼は、ついに世界と勝負するチャンスを得る。
1964年、インスブルックオリンピックで、日本人男子初の8位入賞を果たしたのだ。

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当時、日本スケート連盟の予算は少なく、海外遠征の費用など、ほとんどが個人負担だった。
両親にこれ以上、負担はかけたくない…
佐藤は大学卒業後、『国土計画』への就職が決まり、フィギュアスケートは、引退するつもりだった。

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ところが…
佐藤に対し、当時の社長、堤義明は・・
『家族に迷惑はかけさせない。会社に籍をおいてスケートを続けなさい。』

佐藤「そんなすごい人だと知らなかったから、後から知ってこれは大変なことになった」

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堤は、全国各地にリンクを作り、日本スケート界の環境作りを、影で支えた人物。
まだ、選手・佐藤信夫は、必要とされていた。
一刻もはやく、世界に追い付くために…

佐藤「自分では辞めたつもりだったんです。ちょっと考えが甘かった。周りが認めてくれなかった。」

周囲からの期待に応えるため、佐藤は覚悟を決めた。

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日本フィギュアを世界レベルに

佐藤は、『コンディション作り』の専門家に協力を依頼した。
今や、当たり前となっている試合前の体調管理。
だがこの時代、日本では陸上競技などで導入されたばかりだった。
佐藤は、何日前に、どんなトレーニングをすれば、ベストコンディションで試合に臨めるのか、試行錯誤を繰り返した。
欧米に追いつくためには、できることは全てやる…
ただ、その思いだった。

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その結果、佐藤は、圧倒的な強さで全日本選手権を連覇。
前人未到の10連覇を達成する。

そして、8位入賞したオリンピックから、1年…
佐藤は、日本人初の世界選手権4位入賞を果たす。
それは、フィギュア後進国日本が、初めて世界で認められた瞬間だった。

佐藤は、24歳で現役を引退。
その後、コーチの道へ…

日本人初の世界選手権3位になった佐野稔、松村充など、世界で通用する選手を数多く育てあげた。
1日6時間にも及ぶ練習。
家族よりも多くの時間を共に過ごし、試合では、リンク脇に立てる唯一の存在。
リンク上で、たった1人で演技する選手にとって、何にも代えがたい精神的よりどころ。
それが、フィギュアスケートコーチなのだ。

(*゚Д゚)つ③に続く~♪
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