朝日新聞デジタル  フィギュア特集Kiss and Cry
感性くすぐる浅田真央の滑り 佐藤コーチの心に残る選手
配信日時:2016年3月27日07時28分
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3P4V6DJ3PUTQP00Q.html

■佐藤信夫のフィギュアよもやま話

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今季の浅田真央。「スケーティングに磨きがかかっている」と佐藤コーチは語る

 フィギュアスケートという競技名は、氷上で図形を描くところから来ている。読者の皆さんが、観客席やテレビでご覧になる時、ジャンプに目が行きがちになると思うが、スケーティングもだいご味の一つだ。

 スケーティングでアドバイスすることは、一つだけ。「体重移動で滑る」ということだ。自転車でカーブを曲がる時に、曲がりたい方向に体を傾けるのと似ている。選手たちはスピードに応じて、体の傾斜を深くしたり、浅くしたりしながら、滑っている。

 技術が備わっている選手の滑りは、砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、スーッと伸びていく。漠然と演技を見ているだけでも、印象に強く残る。1968年グルノーブル五輪男子銀メダルのティモシー・ウッド(米)や、72年札幌五輪女子銅メダルのジャネット・リン(米)の演技は、今でも私の心に残っている。

 優雅で気持ちよさそうに滑っているように見えるが、実は白鳥が水面下で足を激しく動かしているように、過酷だ。猛烈な練習がなければ、体全体を使った滑りはできない。感性も重要な要素だ。これは、教えることはできない。様々な経験を積みながら、徐々ににじみ出てくる。

 教え子の浅田真央も、2014年ソチ五輪の少し前から、観衆の感性をくすぐるような滑りができるようになったと感じる。1年の休養を経た今季は、さらに磨きがかかっている。年齢を重ねても、スケーティングは成長するのだ。

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1972年札幌五輪で銅メダルを獲得したジャネット・リン。「氷上の妖精」と呼ばれた

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演技を終えて、得点表示を待つ佐藤コーチ(右)と浅田

真央さんは佐藤信夫コーチに師事して、滑りが良くなったと言われるけど、元から真央さんはスケーティングが上手だったように思う。滑らかで優雅で、ひとつひとつのポジションが美しかった。(今も相変わらず美ポジ♪)

劇的に良くなったかどうかと言われたら、私は素人なので師事前後の滑りの差異がよく分からない。滑る時に上半身の上下動がなくなったと言われているけど、そうなのかもしれない。

それぐらい、違いを見付けるのが難しい技術なのだと思う。スケートは僅かな差をコツコツと地道に積み上げていかないと上達しない技術力が要るスポーツなのね。

高難度のジャンプが跳べるということは、基礎をおろそかにして跳べることはない。基礎がきちんと備わっているから、きちんとできる。基礎がないのに、無理矢理身に付けようとすると、身体を痛めて、戦線離脱する。上手な選手ほど、転倒も怪我も少ない。

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佐藤信夫コーチの門下生と言えば、小塚崇彦さん。小塚さんはつい先日惜しまれつつ現役を引退してしまったけれど、小塚崇彦と言えば“イーグル”と言われる程。

磁石のように滑るというのは小塚さんのイーグルのことを指すのだろうなあと思う。
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金メダルを目指し、挑んだソチオリンピック。
だが、ショートプログラムで、誰もが目を疑う結果に…
フリーを翌日に控え、どん底の状態にあった浅田真央に、佐藤は、ある言葉をかけた。

『真央が倒れたら、止められてでも僕が必ず助けに行くから』

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実は、同じ言葉を、35年前にかけられた選手がいる。
佐藤の教え子だった、松村充。
レイクプラシッド・オリンピック、選考会の当日、松村は、フェンスに激突した。
膝に、歩くことさえできないほどの痛みが走った。
誰が見ても、出場は不可能だった。

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佐藤)充・・明日は・・
松村)僕は出ます!信夫先生、僕は絶対 出ます!
佐藤)お願いします!なんとか試合に出られるように、痛みを取ってやってください。
先生)そんなことをしたら、この子は歩けなくなりますよ。そうなったらあなたは、この子の面倒を一生見られるんですか?

その時、佐藤が返した言葉・・
『一生みるに決まってるじゃないか』

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そして、無理に痛み止めを打ってもらい、選考会を通過した松村。

松村「後になって振り返ると、あの時はこういう覚悟だったんだなとかね」

選手の人生さえ背負う覚悟

この佐藤の覚悟を強く実感したのは、それから1年後のことだった

松村は、レイクプラシッド・オリンピック直前に高熱で倒れ、練習もできないまま、試合当日を迎えた。
どん底の状態にあった松村に、佐藤はこう声をかけた。

『君が倒れたら、リンクの中まで、叱られてでも助けに行く。だから、ぶっ倒れるまで演技しろ!』

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もし、コーチが土足のままリンクに上がれば、ほこりや砂が撒き散らされるため、リンクの整氷作業が必要になり、試合は中断しかねない。

つまり、それは次の出番に向け、集中力を高める選手への『妨害』に等しい行為…
どんな叱責を受けても、おかしくなかった。

松村「だからそれって覚悟がなきゃ言えないじゃないですか。『誰に止められてもいい、俺はお前を助けに行く』って言った時に、すごいな、本当にそう思ってくれてるんだなって思った。」
 
佐藤の言葉は、松村の背中を押した。
最高の演技を見せ、見事8位入賞を果たした。

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僕がついているから、何も心配することはない…
君はただ、全力で滑ればいい…
この松村との話を、佐藤は浅田に言って聞かせた。
それを聞いた浅田は…

浅田「全身全霊で とにかく全てを出そうって思いました。」

そして、迎えたソチオリンピック、フリー演技…
佐藤と共に歩んできた、3年間の、全てをぶつけた。
それは、佐藤信夫の覚悟に、浅田真央が、渾身の演技で応えた瞬間だった。

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゚・*:.。. ☆(●´Д`)終ワリ!!(´Д`○)☆.。.:*・゜
コーチとしての覚悟

佐藤コーチの1日を追った。
早朝5時半すぎ。
共にコーチを務める妻・久美子さんと向かったのは、新横浜のスケートリンク。

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すぐさまスケート靴に履き替え、リンクに向かう。
佐藤を待っていたのは、大勢の子どもたち。
佐藤が教えているのは、トップ選手だけではない。
まだ初心者の子どもから、大学生まで、試合の日以外は、毎日このリンクで教えているのだ。
その指導は、時間を区切ったマンツーマンが基本。
長い時は1日8時間以上、氷の上に立ち続ける。
選手が「やりたい」という課題に取り組ませ、できるまで、とことん待つ…

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できるまで、待つ

これが、佐藤の『コーチとしての覚悟』

佐藤に20年間師事している、小塚崇彦によると…

小塚「究極は怒ってガシャンっていう風になりますけど、それになるまで、ずっと待ち続けてくれる。
我慢してその選手を待ってくれるっていうのは、僕たちにとっては有り難いことで、自分に考える時間を与えてくれたり、自分の感覚を尊重してくれることが難しいところなんじゃないかなと思うので(そういう面では)名コーチだと思ってます。」

佐藤「フィギュアスケートというスポーツはあまりにもやることが細かい。だからひとつずつ教わってひとつずつ身につけていかないとその先に繋がっていかない。」

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だからこそ…
あきらめそうになった時は、厳しく怒る。

佐藤「本当は友達になりたいんだけど、友達になりきったら、言うこと聞かなくなるから、どうしても嫌われ者、怖い存在でいなきゃいけない。」

トップ選手に対しても、子どもたちに対しても、厳しい姿勢は変わらない。
そんな佐藤信夫コーチの、普段の顔は?

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現在、同じくフィギュアのコーチを務める、妻・久美子さんと、娘の有香さんに聞いてみると…

久美子「それがね…あんまりすごくないんですよね。普通の堅いおじさんっていう感じ。」
有香「時々、面白いジョークを言ってみたり、踊り出したり、すごく楽しい楽しいお父さんです。」

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究極の覚悟

4年前のバンクーバーオリンピックで、銀メダルを獲得した浅田真央。
だが、そこに笑顔はなかった・・

その数ヶ月後…次のソチオリンピックに向け、浅田は決意した。
『もう一度、スケートを基礎からやり直したい』

浅田の弱点…それは、ジャンプの前後で動きが止まり、曲との調和が途切れてしまうことにあった。
そこで、浅田親子が選んだコーチが、スケーティングの基礎の指導に定評がある、佐藤信夫だった。

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佐藤「今さら、私がどうのこうのっていうことでもないでしょっていうことで、ちょっとお断りしてたんですけど…」

何度も世界の頂点に立ってきた浅田真央。
培ってきた技術は、体に染み込んでいる。
それをイチから直すということは、一流の選手を壊してしまう可能性だってある…
だが…

佐藤「お母さんのお顔を見てても、その時から決していい状態ではない。本当にあれだけお願いされたらやっぱり、それ(お母さんの思い)に負けちゃったって感じですね。」

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佐藤は、浅田真央のコーチを引き受けることを決意。
徹底的に基礎を叩き込んでいった。

佐藤「ビルを建てるのと一緒で、基礎がしっかりしていないと、ある所まではいっても、そこから先はちょっと難しい。基礎に時間をかけて、しっかりしたものを作れば、上にずっと積み上がっていく。」

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そして、互いに我慢と根気の日々が続き…
3年の歳月をかけ、2人が理想とする演技は、いよいよ完成に近づこうとしていた。

(´・ω・`)つ④に続く~◇
不器用だからこそ 基礎をやり続ける

佐藤の7歳年上で、日本のトップ選手だった、杉田秀男。彼は、中学生時代の佐藤について、こう語る。

杉田「彼の滑りを見た時に、この年齢でこれだけ基本がしっかりした滑りをする子ってのはちょっと脅威だったですよね。負けるとしたら、この子だなと感じた。」

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必死に基礎に取り組んだ佐藤は、わずか15歳で全日本初優勝を飾る。
だが…

1950年代。日本のスケート界は、黎明期。フィギュア先進国である欧米とは、大きな差があった。
ビデオすら普及していなかったため、欧米の情報を手に入れることも難しい時代。
そこで…
佐藤たちは、海外選手の演技を撮影した連続写真をパラパラ漫画にして、必死に技術を研究した。

その努力は実を結び、国内では敵なしの存在に…
さらに、フリーの演技では、 日本人で初の二回転ルッツジャンプに成功。
名実共に、日本のトップ選手となった佐藤。
そして彼は、ついに世界と勝負するチャンスを得る。
1964年、インスブルックオリンピックで、日本人男子初の8位入賞を果たしたのだ。

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当時、日本スケート連盟の予算は少なく、海外遠征の費用など、ほとんどが個人負担だった。
両親にこれ以上、負担はかけたくない…
佐藤は大学卒業後、『国土計画』への就職が決まり、フィギュアスケートは、引退するつもりだった。

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ところが…
佐藤に対し、当時の社長、堤義明は・・
『家族に迷惑はかけさせない。会社に籍をおいてスケートを続けなさい。』

佐藤「そんなすごい人だと知らなかったから、後から知ってこれは大変なことになった」

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堤は、全国各地にリンクを作り、日本スケート界の環境作りを、影で支えた人物。
まだ、選手・佐藤信夫は、必要とされていた。
一刻もはやく、世界に追い付くために…

佐藤「自分では辞めたつもりだったんです。ちょっと考えが甘かった。周りが認めてくれなかった。」

周囲からの期待に応えるため、佐藤は覚悟を決めた。

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日本フィギュアを世界レベルに

佐藤は、『コンディション作り』の専門家に協力を依頼した。
今や、当たり前となっている試合前の体調管理。
だがこの時代、日本では陸上競技などで導入されたばかりだった。
佐藤は、何日前に、どんなトレーニングをすれば、ベストコンディションで試合に臨めるのか、試行錯誤を繰り返した。
欧米に追いつくためには、できることは全てやる…
ただ、その思いだった。

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その結果、佐藤は、圧倒的な強さで全日本選手権を連覇。
前人未到の10連覇を達成する。

そして、8位入賞したオリンピックから、1年…
佐藤は、日本人初の世界選手権4位入賞を果たす。
それは、フィギュア後進国日本が、初めて世界で認められた瞬間だった。

佐藤は、24歳で現役を引退。
その後、コーチの道へ…

日本人初の世界選手権3位になった佐野稔、松村充など、世界で通用する選手を数多く育てあげた。
1日6時間にも及ぶ練習。
家族よりも多くの時間を共に過ごし、試合では、リンク脇に立てる唯一の存在。
リンク上で、たった1人で演技する選手にとって、何にも代えがたい精神的よりどころ。
それが、フィギュアスケートコーチなのだ。

(*゚Д゚)つ③に続く~♪
ワンダフルライフ 2014.04.20 OA
http://www.fujitv.co.jp/wonderful-life/001.html

佐藤信夫

フィギュアスケートコーチ
これまで数多くのトップ選手たちが、佐藤の門を叩いてきた
人呼んで、“フィギュアスケートの駆け込み寺”
世界のトップスケーターが、絶大な信頼を寄せる
佐藤信夫とは、一体どんな人物なのか?

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実は、彼は元フィギュア選手であり、今なお、破られていない記録を達成している。
全日本選手権10連覇。初優勝は、なんと高校一年生の時。
それから10年間、日本男子フィギュアスケート界の、トップに君臨し続けた。
だが、その道のりは、決して平坦ではなかった。

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選手時代に培った覚悟

これまで、壁にぶつかった多くのトップスケーターたちが、佐藤の門を叩いてきた。なぜなのか? 

佐藤が、最も重視しているのは「基礎」。その考えは、選手時代に培われた。
10歳の時、元フィギュア選手の母に連れられ、初めて目にしたフィギュアスケートに、すっかり魅了された佐藤は、1人のコーチの元で練習を始めた。
山下艶子(つやこ)、御歳85歳。今も現役。
彼女から見て、佐藤はどんな子どもだったのか?

山下「とにかく同じことを何回滑らせても 黙って何回でもやる。気持ちも強いし、もちろん体もですけど、本当に強い人ですね。」

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佐藤少年が、何度も繰り返し行っていたのが、フィギュアスケートの基礎「コンパルソリー」。
コンパルソリーとは、リンクに、『課題の図形』を繰り返し描く競技。
滑走姿勢の美しさや、滑り跡の『図形』の正確さを競うもので、『フィギュア』という言葉の語源ともなっている。
フィギュアスケートの靴のエッジは、中央が溝状にくぼんでいる。
この突き出た左右のエッジを、使いこなせないと、正確に、同じ軌跡を描くことはできないのだ。

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14年前まで、フィギュアスケートは、現在のショートプログラムではなく、このコンパルソリーとフリー演技の合計点で競われていた。
同じ動作を延々と繰り返す、退屈な練習…
だが佐藤は、毎日6時間近くも基礎であるコンパルソリーに費やした。
不器用なため、人の3倍4倍練習しないと技術を身につけることができないと感じていた。

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( *´∇`)つ②に続く~☆
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